三宝幼稚園

三宝幼稚園外観戦後の混乱期に幼児を預かり教育する場をとの提案を昭和23~24年に地元の方々より懇請され、同じ地域内に『太田幼稚園』が有るのでと辞退していた折に地元の有志が腰を上げ、昭和26年に庫裏の一部を改造して無認可の『三宝保育園』としてスタートいたしました。

後援者の尽力により、木造園舎を境内に建設し、翌27年から認可を受け正式に『三宝保育園』として幼児の保育にあたりました。同29年からは『三宝幼稚園』として県知事の認可を受け、幼稚園としての幼児教育の場として再スタートをきりました。新井せい先生のもと多くの優秀な先生方のご尽力と、保育内容の充実により、昭和30年代は太田市の幼稚園も7園しかなく、遠方の尾島町や牛沢、新野、邑楽町の石打などから、乗り合いバスに首から定期券をぶらさげた子供たちが通園していました。

同33年には幼稚園中のオルガンを集めてのヤマハ音楽教室も開講し、同36年には東園舎を増築し、施設設備も徐々に整っていきました。この当時は運動会は太田小の校庭、発表会も講堂で御父兄の協力のもと行われていました。

同41年にには園児の急増対策として地元の方々からの懇請により、入園前の乳幼児預かりを行うために、現有施設だけでは不足のため、八幡町の畑に個人住宅の解体資材を貰い受け、八幡分園を開設し、園児の増加で急場しのぎでプレハブ園舎を作り対応いたしました。

昭和40年代後半より各地に幼稚園が開設され、園児も減少して行く中、八幡分園は昭和52年に閉鎖されました。この当時からスクールバスの運行が各園で始まりましたが、初代園長は「自分の足で通うことが大切で、バスを回すと幼稚園の地域性が失われる」という信念で、バスの導入をせず、その教えは今日まで至っております。

昭和50年代に入り、幼稚園児が激減していく中で、区画整理前の西藤地区への移転も検討しましたが、『お寺の庭で遊んだという思い出が大切である』ということで、移転計画は断念しました。

昭和55年に現園長が大正大学大学院を修了し、副園長になり、移転の代わりに最初の木造園舎の改築を計画いたしました。同56年は無認可保育園時代から数えて30周年にあたり、その記念事業として鉄骨RC造2階建園舎に改築し、合わせて記念式典を行いました。50年代後半からは特に園児数も減り、給与の支給もままならない時代がありましたが、保育内容と行事の見直しを行い、幼稚園のカラーを前面に打ち出して行く中、平成以降になりようやく安定してまいりました。

平成元年には群馬県私立幼稚園協会から研究指定を受け、『自然との関わり』について研究し、翌2年10月に水道山周辺で公開保育を行いました。同4年には東園舎の老朽化が進み、40周年事業の一環として東園舎の改築を行い、鉄骨RC造2階建園舎を建設し、翌5年竣工、施設設備のさらなる充実を図りました。三宝幼稚園

昭和29年に幼稚園となってからの卒園生は2000有余名を数え、それぞれの立場で現在活躍しております。現在は定員80名と言う小規模幼稚園の特性を踏まえ、お寺の境内で遊び、本堂でお勤めをし、さまざまな園外保育に出かけて行き、多くの活動や体験を通じて、豊かな心情と、心身ともに健やかな、たくましい幼児の育成を目指しています。

 

>三宝幼稚園ホームページ